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私の好きな武将!最上義光について

こんにちは!今回のブログを担当させていただく二年の本郷です!

私が今回取り上げるのは山形藩最上義光についてです!私は小学六年生の頃にあるブログを見てこの人物に興味を持ったので、皆さんにも知っていただきたくこの内容にしました!

ご存じでない方も多いと思いますが、今回の記事で興味を持っていただけると幸いです。それでは内容に入っていきましょう!

マイナー?山形藩とは

 

突然ですが、皆さんは関ヶ原合戦後の大大名と言うとどこを思い浮かべますか?例えば、有名なところだと加賀120万石の前田家などが挙げられると思います。その後に続くのが越前68万石の松平家・仙台60万石の伊達家などです。

実は、山形藩もこの上位に入る雄藩です!その表高は57万石!一説には実質100万石とのことです!(これは仙台藩にもある説なのですが…)

ですが、先ほど見てきた諸藩と比べて山形藩はマイナーな存在です。それはなぜかというと、大坂の陣が終わってすぐの1622年に改易、つまりお取り潰しになってしまったことが理由だと思います。

お家騒動の結果、お取り潰しとなった最上山形藩の後は、鳥居家など譜代大名が山形に入りますが、彼らの代では15~6万石の中小藩でしかありませんでした。

山形藩の全盛期は最上家の代であったと言えるでしょう!

 

では、その山形藩を作った最上義光はどのような人物だったのでしょうか。続いてはそちらを見ていきましょう!

最上義光の事績

まず、最上氏の始まりからです。最上氏は、清和源氏の名門足利家の支流である斯波氏が、室町幕府公認の地域のまとめ役・羽州探題として、「五月雨をあつめて早し最上川」の句で有名な最上川流域にやってきたのが始まりです。

小勢力から躍進

山形藩の祖である最上義光は1545年に生まれました(ちなみに読み方は「よしあき」です。初見殺しですね笑)。その頃の山形は、群雄割拠する乱世の真っただ中でした。

山形の正当な支配者である最上氏も小勢力の一つでしかなく、近隣の大名伊達氏の保護下にあったのです。そのため、この状況を脱することができる人物として、義光は家臣団らの期待を受けて成長していきました。

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当時の最上氏は村山地域も統一できていなかった!

義光の元服後、着実に勢力を広げる最上氏でしたが、1574年に義光と家督を取り戻そうとする父との間で内乱が起き、伊達氏を巻き込んだ山形全体を含む合戦が起きます。これが天正最上の乱です。

しかし、この逆境は最上氏が力をつけるチャンスとなりました!周辺勢力をまとめていた最上氏の宿敵天童氏を破り、伊達氏から完全に独立をし、村山地域の大半は最上氏のものになります。その後、山形の統一に力を尽くした義光は1587年には沿岸部にまで手を伸ばし、庄内地方を手に入れ、順調な勢力拡大をしました。

挫折と転機

ですが、ここで最大の敵が現れます。この庄内地方は大勢力である上杉氏も狙うところであり、翌年には上杉氏の攻撃を受けて敗北、奪回を狙うも豊臣秀吉が当時出していた惣無事令(勝手な戦を禁じる命令)のために泣き寝入りの憂き目にあってしまいます…。

また、1595年には秀吉の甥、秀次のもとに嫁がせていた愛娘の駒姫が、秀次謀反の疑いに連座して処刑されてしまいます。姫は当時15歳で、秀次とは面会したこともありませんでした。これが義光の転機になります。秀吉の行いを恨み、徳川家康に近づいたのです。大名として初めて息子を家康に仕えさせると、その距離はさらに近づき、関ヶ原でも当然、家康率いる東軍の味方になります。

山形藩成立!

関ヶ原の合戦では、本戦の関ヶ原にはおらず、上杉氏の抑えとして奮戦します。当時は24万石ほどの勢力でしたが、120万石の上杉氏の軍勢相手に果敢に戦います。その後、上杉氏は関ヶ原本戦が西軍の敗北で終わると聞くと退却しました。最上氏の粘り勝ちに終わったのです!

 

この戦功により最上氏は現在の山形県の大部分を領する57万石の大大名にまで上り詰めたのです。やはり、時流を見極めるのがうまいというのが義光の持ち味でしょう。実際のところ、義光は戦下手で、外交・策謀に優れていました。逆に言うと、彼の能力に藩全体が頼っていたため、亡くなって8年という短期間でお家騒動が起きてしまったとも言えるでしょう。皮肉な話です…。ですが、それも優秀な人物であった裏付けだと思います!

 終わりに

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銅像。曇りなのが悔やまれる…

そんな義光は山形の皆さんから愛されているようで、現在の山形城には義光の銅像が飾ってあります。今にも動き出しそうな躍動感で、ポージングが決まっていてかっこいい!持っているのは義光愛用の鉄の指揮棒です。実物の重さは一般的な刀の二倍だとか!

お城自体には天守は残っていないのですが、最上義光歴史館という最上氏専門の歴史館もあるため、ぜひ行ってみてください!

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山形城 二の丸東大手

以上で今回のブログを終わりにしたいと思います。最上義光に少しでも興味を持っていただけたでしょうか?自分としてはこの場を借りて紹介できただけでも嬉しいです!ですが、一つ一つの合戦などまだまだ書ききれないことは沢山あるので、また機会がありましたらお話しさせてください!笑

お読みいただきありがとうございました!

 

参考文献

・片桐繁雄『最上記 現代語訳』(最上義光歴史館、2009年)

・片桐繁雄『最上義光公没後400年 その生涯と事績』(最上義光歴史館、2014年)

画像出典

山形県庁HP山形県内市町村ページhttps://www.pref.yamagata.jp/link/others/clink.html